40年後の『偶然と必然』

佐藤直樹著、東京大学出版会、1998年、346頁、3,800円

研究者の世界においては、激しい競争を勝ち抜いて成果をあげたことによってその仕事が高く評価されることがある。激しい競争は、その分野が多くの研究者の興味を引き付ける重要なものであることを示しているからだろう。しかしそのような場合、例えその研究者がいなくても、その発見は時を経ずして別の研究者によりなされたはずである。科学の進歩への研究者の寄与ということを考えた場合は、むしろ競争のない、すなわちその人でなければ誰もなしえない成果こそが重要だと考えることもできる。この本は、まさにこの著者でなければだれも書けなかっただろう、という意味において重要な著作である。著者の生化学・分子生物学のバックグラウンドに哲学の知識と語学能力が結びついて初めて、ジャック・モノーの有名ではあるが難解な著作に明快な解釈が与えられた。当時の科学的知識とモノーが受けた哲学的影響を考慮することにより、なぜ「偶然と必然」が世界中で読まれたのかが理解できる。また、「読まれた」ことと「理解された」ことの違いとその理由もはっきりしてくる。「偶然と必然」の難解さの背景の一つには、モノーのキリスト教的バックグラウンドがあることも指摘されている。マクファデンの量子進化あるいは、カウフマンの自己組織化と進化の論理を読んでも明らかなのは、キリスト教的な世界観の中で育った科学者が生物の進化を考えた時に感じる「居心地の悪さ」である。これらの本では、もし人類の出現が偶然の結果であったとしたら、人間の存在には意味がないのではないだろうかという不安が意識的・無意識的かは別として、文章のあちこちに顔を出している。モノーの論旨の一つは、そのような考え方から決別して理性の王国を目指すべきだということであろうが、その議論の前提自体が、日本人には感覚的にとらえづらいように思われる。おそらくキリスト教圏ではそのような受容の問題は生じなかったのではないだろうか。「偶然と必然」を再解釈するにあたってもう一つ問題となるのは、40年前とは異なる日本の社会情勢である。理系の学生であっても哲学や宗教について少しはかじっていないと恥ずかしい、あるいは文系の学生であっても相対性理論や量子力学、あるいはゲーデルの不完全性定理について多少の知識を披露できると格好がよい、といった風潮は残念ながら今や見られない。また40年前のマルクス主義の存在感を考えた場合、そもそも「思想」というもの自体が現代では存在を薄れさせているように思われる。そのような時代にあって、「偶然と必然」を読み直す意味が何かを考えた場合、内容には今日的な課題が含まれるとはいえ、個人的にはその意味に懐疑的にならざるを得ない。この40年間に生物学は劇的に変貌してきた。今からみてもモノーは非常に遠くを見据えていたことには間違いがないが、40年前には不可能と考えられていた生物学的手法が現在ではありふれたものになっている。この本ではそのような生物学の進歩についても解説しているが、では、その進歩した生物学の知識をモノーが持っていたとしたら、その思想は「偶然と必然」で述べられた思想とは異なっていただろうか。本書を読む限り、著者はその可能性について否定的なのではないかと思うが、現代によみがえったモノーが何を考えるかを想像してみるのも面白いかもしれない。

書き下ろし 2012年9月