わかりやすい文章

良いか悪いかは別として、世の中の人間を文系と理系に大別することがよくなされる。高校ぐらいになると、進学希望者はたいてい文系を志望するか理系を志望するかを決めなくてはならない。高校生にとっては一大事だが、文系と理系の間に越えがたい深淵があるというわけでもない。理系の代表格である工学部でも、建築学科には芸術と紙一重の研究をしている研究室があるし、普通は文学部にある心理学科などは、一時期、実証科学を目指す動きもあった(今でもあるのかも知れない)。身近には、植物生態学で博士号を取って、その後、あっさり方針転換して今は西洋美術の比較文化を教えている友人もいる。もう一人の友人は、海のプランクトンの研究で修士号をとって、現在は本居宣長の専門家になっている。

もっとも、逆に文系から出発して、科学の分野で大成した人の話はあまり聞かない。大学の理系の学部から途中で文系の学部へと移ることを昔は文転と称していたが、理転という言葉は聞かなかったから、いったん文系の世界にどっぷりつかると動きたくなくなるものなのかも知れない。さる文系の大先輩は、日頃「理数系の学問など役に立たない。学校で習った理系科目の中で、今でも使うのは三角形の二辺の和は他の一辺より長いというのを思い出して広場を横切る時ぐらいだ」とおっしゃっていた。その点、理系の人間の場合は、どんな専門馬鹿とて小説ぐらいは読むだろう。常に日常生活の中で「文系的なもの」にさらされているのが、文転はあっても理転はない理由なのかも知れない。

小学校の時から新聞の科学記事をスクラップして集めていた筆者などは、さしずめ根っからの理系と言えそうだ。それでも、専門の論文しか読まない、などということはない。小説であれ何であれ文章を読むのは楽しみである。ただ、一つ苦手なのは論理が読み取れない文章だ。小説ならば、別に論理が読み取れる必要もないが、著者が何かを主張している(らしい)文章で、肝心の主張の論理が読み取れないと、いらいらして「なんだこの文系的な文章は」と差別的な言辞を弄したりする。もっとも、そのあとで著者が理系出身であることが判明したりすることもあるが。

「論理性が読み取れない」=「文系的」というのは一理系人の偏見としても、エッセーなどを読んだ時に、その展開を予想しながら読める場合と、暗闇の中を鼻をつままれて引きずり回されているように感じる場合があるのは確かである。そしてごく一般的な印象として、文系の著作の場合は展開が一直線にはならず、海の波のように、寄せては返し、寄せては返しながら徐々に潮が満ちていくように感じられることが多い。寄せては返すそのリズムに身を任せられればよいのだが、返す時に「なぜここで元に戻るのだろう」と引っかかってしまうとどうもいけない。引っかかるかどうかは、その著者の文体の違いによるようだ。

文系の著者の書かれたもので、筆者にとって読みやすいものとしては、例えば、この前亡くなった日本語学者の大野晋の書いた文章が挙げられる。その専門的な主張の当否はわからないが、書いたものを読むと、データに基づいた論理の展開が自然で、源氏物語の各帖の間の差異を言葉の統計から論じた文章などはむしろ理系の論文を読んでいる印象を受ける。データに基づく論述である点が読みやすさを生み出しているのであって、文章の書き方の問題だけではないのかも知れないが、エッセーなどでも次に何を主張したいのかを予想しながら読み進むことができて読みやすい。やはり文体の寄与も大きいだろう。

英文学者の別宮貞徳の文化論などの文章もわかりやすく、いつも面白く読んでいるが、この人は上智大学の英文科を出る前に、なんと東京大学の理学部動物学科を出ていた。文転組であるとすれば、理系人間に読みやすくて当然か。その他、筆者の最近のお気に入りは、東京大学出版会の「UP」に連載されている憲法学の長谷部恭男の文章である。特に憲法に関心があるわけではないのだが、その論理の流れを追うためだけに真っ先にページをめくって読みたくなる。そして、読むたびにその論理的で明晰な文章の流れに感心しては「文系にしておくのはもったいない人だ」と文系の方々の顰蹙必至の感想を持つのである。

この「憲法のimagination」という連載の中で始めて知ったのだが、哲学者には独特の書く技法が存在するという主張があるそうだ。哲学的な思考の結果は、社会常識や権力者の正当性を覆しかねないので、結果としてその研究成果を公表する際には、一般大衆や権力者からの迫害を受ける可能性がある。それを避けるために、哲学者は無知蒙昧な大衆には理解しがたい難解な表現でわざわざ著作を刊行するという理屈だ。ソクラテスの時代ならいざ知らず、近代以降の哲学的著作の難解さの言い訳としてはお粗末と感じられるが、学問の風土というのは一度作られると論理とは離れて存続し続ける傾向はあるから、あながち空言と決めつけることもできないかも知れない。

哲学的な著作ならいざ知らず、一般の本となると「注意深く行間を読む」読者だけを対象にして書くわけにはいかない。特に教科書などは、少なくとも建前上は、全ての読者に理解してもらう必要がある。高校までの教科書には、文部科学省の検定というものがあるが、その検定意見の決まり文句の一つに以前は「理解しがたい表現である」というのがあった。この手の意見がつくと、著者としては「教科調査官の頭の中身の方がよっぽど理解しがたいよ」とぼやきながらも少しでもわかりやすい文章にと書き換えることになる。では、誰にでも親しみやすいわかりやすい文章が高校の教科書によいのか、というと、どうもそうとは限らないらしい。

高校の教科書の執筆を最初に依頼された際、張り切って最新の研究成果を調べ、取捨選択した項目を面白いストーリーに載せて解説した原稿を用意して編集会議に持っていった時のことを思い出す。その場で高校の現場の先生に言われたのは「これはお話であって教科書ではありませんね」という言葉だった。その先生曰く、面白い話をするのは先生の役割であって、教科書に必要なのはその話を裏付けるリファレンスとしての機能であり、授業に必要な項目が全てきちんとおさえてあることこそが重要なのだ、とのことであった。確かにもっともな話なので、「それが通用するのは一部の優秀な先生の場合だけでは」と心の中で密かに思いはしたものの、きちんと項目が網羅された原稿に書き換えたのであった。

その際に、将来機会があったらストーリーを中心に据えた高校生向けの教科書を書くぞ、と心に決めたのだが、今回、その時の意図が講談社ブルーバックスの「光合成とはなにか」として実現した。光合成についての本ではあるが、乱雑さの概念から説き起こす型破りの展開になっている。全地球生命を支えている光合成にまつわるさまざまなエピソードを地球環境問題まで含めて、高校生でも(文系の読者でも!)面白く読めるように工夫したつもりである。理想としては、「光合成には興味がないのだが、文章が面白いのでついつい読んでしまいました」という読者を何人かでも獲得できればと思っているが、さすがにそれは高望みかも知れない。まあ、普通、光合成に興味がなかったらそもそもこの本を手に取るチャンスはないだろうし。

さて、この文章、わざと「見通しの悪い」展開で書いてみましたが、話の流れを予測しながら読むことができた方はいらっしゃいますでしょうか?まあ、流れの最後は単なる宣伝で終わるわけですが。

初出:「本」(講談社)2008年10月号