植物生理学I 第2回講義

生物とエネルギー・光合成研究の始まり

初回のイントロダクションに続き、地球生態系、人間、植物における光合成の重要性について話した後、これまでの光合成の研究の歴史を振り返りました。エントロピーの増大則についても触れたのですが、ここに関連するレポートが多く寄せられました。今回の講義に寄せられたレポートとそれに対するコメントを以下に示します。今回は、僕がどのようなレポートを求めているのかをわかってもらうため、いろいろなタイプのレポートを選んでみました。


Q:授業が物理ベースであるので物理に苦手意識のある私にとって少し難しく感じました。「エントロピー増大の法則が生き物にも当てはまる」というところが少し理解するのに難しかったです。生きているということは生命活動を行っているのであるから、何もしていない状態でもエントロピーは増大しているというのは納得ができます。では、「秩序だっていたものが無秩序な状態になる」ことがエントロピーの増大の法則だとしたら、生き物は子孫を残して寿命を迎えると死んでいきますが、この一連の流れが生物の秩序であると考えた場合、無秩序な状態というのはあるのでしょうか。

A:これは、面白い論理ですね。死んでいくのまでまとめて秩序と考えれば、あらゆることが秩序ではないか、ということですよね。ただ、子孫を残すと言っても、子孫が親と似ていること自体が秩序ですから、おそらく無秩序な状態では親と子供は似ていないでしょうし、一定の寿命などもないでしょう。マイケル・ムアコックのファンタジーには混沌と秩序の対立をテーマにしたものがありますが、この中の混沌の支配した世界の描写などは、「無秩序な状態」の一例かも知れません。


Q:今回(10月6日)の授業で、熱力学第1法則についての説明を受けた。このとき、植物生理学には関係がないが、パーソナルコンピュータのことが思い浮かんだ。現在のコンピュータはエネルギーを無駄に消費しているのではないだろうか。コンピュータをひとつの系だとすると、外界からの電気エネルギーを構成パーツへ供給し動作させるエネルギーと熱エネルギーに変化させている考えることができる。このときの、熱エネルギーはコンピュータの動作に必要なく、外界に分散させているだけの存在である。熱を発することで、エネルギーを無駄に消費していると考えた。この無駄をなくすために、熱の放出が比較的少ないノート型パソコンの普及が必要であると考えられる。コンピュータの中央演算処理装置の処理速度、グラフィック性能などがここ数年急激に成長している。この成長に伴い、発せられる熱も増加している。しかし、利用する人々の、コンピュータの使い方は変化していない。文章を作成する、webサイトを閲覧するなどほとんど変化していない。作業内容が変わらないのならば、処理能力の高いものに変更する必要はないと考えられる。供給された電量に対する処理能力は上昇しているのかもしれないが、いくら上昇させても処理能力を必要としない作業をするのならば無駄である。化石燃料などのエネルギー資源を意味もなく燃やしているのと同じであると考えられる。この無駄をなくすために、処理能力は高くないが、消費電力の少ないコンピュータを利用していく必要がある。ノート型のコンピュータはデスクトップ型のコンピュータに比べて、熱の放出が少なく低消費電力のものが多いので、ノート型のコンピュータの普及が必要であると考えられる。
参考文献:H.Mohr/P.Schoper,『植物生理学』,シュプリンガー・フェアラーク東京,1998年,p.37-39

A:講義の中では伝えきれなかったと思いますし、この講義は植物生理学の講義であって、熱力学の講義ではないので必要もなかったと思いますが、実は、ここで問題となっている「電気エネルギーが熱になる」ということ自体がある意味で、系内の秩序を維持しているのです。ですから、「無駄になるエネルギー」を0にすることはできません。これは、地球に降り注ぐ光が熱となる過程において生命が維持されていることと対応します。あと、レポートとしてパソコンを取り上げること自体は問題ありませんが、せっかく取り上げるのであれば、デスクトップ型とノート型で何が消費電力の違いをもたらしているのか、などについて論理に基づく考察が欲しいと思います。


Q:植物生理学という分野からは離れてしまいますが、生物と物理法則について興味を持ちました。授業では、熱力学第1法則、第2法則とエントロピーや秩序について扱い、「生物は物理法則には逆らえない。」「生物の秩序は常に保たれているように見えて、乱雑になっていく。」ということについて学びました。私は生物が物理法則に従わないことはないのか、具体的な例を探し、人間社会と生物学的現象の2点について考察しようと考えました。
 人間個人や社会については秩序と乱雑さを考えて生きました。日本人はみんなと同じを好むとよく言われ、大まかに見たとき確かに行動は無意識に周りから外れないようにしていて秩序が守られていますが、細かく見るとまったく同じ行動をしている人はいないのでやはり乱雑であると考えられます。社会全体を見ても秩序が保たれているのは、そうしようという力が加わっているからで、社会的なルールなどの秩序がなくなれば社会は乱雑になってしまうと考えました。
 生物学的現象については「永久機関は存在しない」ということも考えていきました。思い浮かんだのはがん細胞です。がん細胞は細胞分裂を永久に繰り返していて、ヒーラ細胞は今でも分裂を繰り返しています。ただこれは培養されているからであって個体が死んでしまえば一緒に消滅してしまうので、閉鎖系ではないと考えられます。秩序と乱雑さについては森林の遷移を考えましたが、更地から陰樹林に成長する流れは秩序を保っていると考えられますが、陰樹の中でさまざまな種類が混ざってしまうのでひとつの種の林にするためには外部からの力が加えなければならず、やはり乱雑に向かっていると考えられます。
 最後に、今回考えた事象では生物は物理法則に逆らえないということになりましたが、機会があればほかの事象についても考えてみたいと思いました。

A:これは、レポートの題材としてはおもしろいと思います。ただ、社会現象などに考慮する対象を広げた時には、何を以て秩序とし、何を以て無秩序と定義するか、という点が重要になります。また、社会的なルールが外部の力なのか、内部のものなのか、という点も複数の解釈があり得ると思います。エッセーとしてはこのままで面白いのですが、科学的なレポートと考える場合は、そのあたりの論理をもう少し厳密に展開するとよいと思います。


Q:エントロピー増大の法則に対する生物の秩序の維持について、常に同じに保たれている自分たちの体が実は変化し続けているものだということを知って非常に驚いたので、考察することにしました。生物の秩序は常に物質を入れ替えることで保たれているということは講義で学びました。これを行うためには、新たな物質を作り続けるだけでなく、常に自分を構成している物質を壊し続ける必要があると考えられます。このシステムを保つには、代償として講義でも習ったとおりかなりのエネルギーが必要になってきます。生物にとって常にエネルギーを摂取し続けることは、そう簡単ではないと思われます。では、エントロピーの増大に反抗するという目的以外に、そこまでして物質を入れ替えるメリットがあるのでしょうか。メリットとして、まず周囲の環境への適応が考えられます。乾燥条件や気温の変化など、常に物質を入れ替えることで柔軟な対応が可能になります。次に、体内の正常化が考えられます。たとえば異常細胞が生まれた場合でも、物質の入れ替えが早ければ早いほどその異常細胞が壊される時期も早くなります。体内の機能を正常な状態で維持するためにも物質を入れ替え続けることが必要になることがわかります。体内の物質の入れ替えは普段の生活では気がつかないシステムではありますが、実はさまざまな点で生物にとって不可欠なものだということは間違いありません。
参考文献:「生物と無生物のあいだ」著:福岡 伸一 講談社現代新書

A:これは、講義で話されたことを出発点として、そこから生じる疑問点を自分で設定し、それに対して論理的に回答を与えているという点で、すばらしいレポートだと思います。贅沢を言えば、もう少し何らかの意外性・独創性があると完璧ですね。


Q:植物の光合成の反応は葉緑体中のチラコイド、ストロマの二箇所において起こる。カルビン回路の反応はストロマで、光化学反応、電子伝達系、ATP合成はチラコイドで起こる。光合成はまずチラコイドにおいてクロロフィルの励起から始まる。光化学系Ⅰ・Ⅱに光が当たるとクロロフィルaが励起し、高エネルギー電子が放出される。光化学系Ⅱで水が分解されると水素イオン、電子、酸素を生じ、電子が光化学系Ⅱの電子の穴を埋める。次に光化学系Ⅱから放出された電子は電子伝達系を経て光化学系Ⅰの電子の穴を埋める。光化学系Ⅰから放出された電子はストロマからの水素イオンとともにNADPHを生成する。また、チラコイド内外で水素イオンの濃度勾配を生じ、それによる水素イオンの流れによってATPが合成される。一方カルビン回路では二酸化炭素がリブロース二リン酸と結合しグリセリン酸リン酸になり取り込まれる。グリセリン酸リン酸はATPによりリン酸化、NADPHにより還元されグリセルアルデヒドリン酸となる。そしてこれの一部からグルコースが合成される。このように葉緑体単体でATP合成や糖生成など様々な反応系が存在することはかつて葉緑体が独立した生物であり、細胞内共生によって細胞小器官となったことを裏付けていると考えられる。

A:これは、書かれていることはまっとうで、講義にも関連しているのですが、僕が求めているレポートとは少し違います。講義の最初にも言いましたが、「調べたことを記述しただけのレポートは、さほど評価しない」ことにしています。「自分の頭で考えた論理を評価する」という評価基準からすると、ちょっと物足りないですね。


Q:私は物理と生物ってまったくの別モノだと思っていたのですが、エントロピー増大の法則とかも生き物にも成り立つと講義を聞いていて驚きました。もちろん世の中で起きていることがすべて法則にあてはまるかと訳じゃないと思うけど、数式にあてはまると思うと複雑です。植物にも人間みたいに機嫌がいい、悪いってありますよね。機嫌がいいときは綺麗に花が咲いたり、悪いときにはすぐ枯れちゃったり…あとは話しかけたり音楽を聞かせたりするとよく成長するなんて話もありますよね。もし植物に光合成、呼吸、蒸散以外にそういう能力が本当に存在するなら、どの器官でどんなふうに外界の情報を取り入れてるのか、そしてこの力にも物理の法則が成り立つのか、非常に気になります。やっぱり葉がそういう力をもっているのかな、と考えたんですけど、実家で母親の趣味で育てている鉢植え(名前までは覚えてないけど、ユリの仲間だった気がします)はつぼみをつけている時が一番そういう力があった気がします。だからつぼみとか花のほうが力があるのかな、とも思いました。

A:こちらは、上のレポートとは対照的で、自分の頭で考えようと言う姿勢は感じられます。ただ、「論理」かというとちょっと・・・。「つぼみをつけている時が一番そういう力があった」と思うのであれば、「気がします」ではなくて、どのような観察からどのように考えてそのように推測したのかを書けば、非常によいレポートになる可能性があります。


Q:生物も物理法則に従っていると考える事は、結局は無理なの ではないかと考えていたが、エネルギーの点からみると、生物 の秩序形成はその法則に従っている部分もあるといえるだろう。  それでは、生物が物理の原則に従わないのは、どういう点な のだろう。 物理を学んでこなかったので、熱力学の法則は興味深かった。 光合成反応は、エネルギー変換の過程であり、乱雑さが低くな る方向に動く反応として、理解しやすいと思った。他の生物学 的な現象に対してエネルギーの面から考えてみたいと思った。

A:これも、「考えてみたい」で終わるのではなく、実際に考えて、それをレポートに書いて欲しいところです。


Q:生物の肉体を構成する細胞は日に日に入れ替わっている、という点に興味を持ちました。人間の場合7年周期で全身の細胞が別の分子で作り直される、つまり七年前の自分と今の自分では分子単位で別の物体ということになります(注1)。それは当然脳だって含まれるわけで、脳を構成するニューロンはみな七年前とは別物になっているはずです。心を作る脳が別物なのですから、それはつまり七年たてば自分は肉体だけではなく精神的にも別人になっているのではないでしょうか。七年分の成長、あるいは老いがあり、記憶や思い出が増えたりあるいは忘れたり、考え方や趣味嗜好が変化します。しかし実際には、何年たっても自分は自分であり、自分が自分以外の何かになったという自覚はありません。自己についての認識が変わることはありません。枝葉瑣末が変化したところで精神まで別人になっているとはいえないはずです。ですがそれは単に過去から連続した記憶があるからそう錯覚を起こしているだけでしかないのではないでしょうか。自我とは脳が作る幻想、錯覚に過ぎず、意思は結局外部から入力された情報への応答の積み重ねでしかないわけです。つまり結論として何が言いたいかというと、精神や心というものが所詮は化学反応まで還元できる現象に過ぎないわけで、実際には存在しない錯覚なのだから、そんなものに「精神的に別物か」などと投げかけたところで意味はないと考えられるわけです。
注1エイジング・ボディ老化と神経筋骨格障害(発行:エンタプライズ 2004/1/26 著者: 佐藤昭夫・竹谷内宏明監訳橋本辰幸訳 Jacqueline D.Bougie著)

A:これは、レポートとして面白いと思います。物質が変わっているのに、自我は変わっていないということは、自我が錯覚に過ぎないことを示している、という論理ですね。でも、逆に、自我は変わっていないのに、物質が変わっているのであれば、物質以外に何か変わらないものがあるはずだ、という論理も成り立ちませんか。親犬から生まれた子犬は、もちろん物質としては別物ですが、明らかに連続性が感じられます。この場合、親と子のDNAは物質としては同じものではないけれども、そこにのっている遺伝情報の一部がコピーされて保存されているから、親子が似るわけですよね。とすれば、脳の場合も、重要なのは物質ではなく、情報であって、その情報の連続性が自我の一体感をもたらしている、という議論も成り立つように思います。