生物学通論 第4回講義

細胞とオルガネラ

第4回の講義では、生物の定義、細胞の成り立ち、細胞内共生説などについて解説しました。


Q:生物は細胞からなり、自己増殖能力を持ち、代謝をするものであると定義される。この内、細胞内に核をもたない(核膜がない)ものを原核生物、核を持つ生物を真核生物という。原核生物と真核生物には核の有無の他にも、ミトコンドリアや葉緑体などのオルガネラの有無や細胞一つの大きさなど、あらゆる特徴を異にしている。その中でも私は、細胞壁について注目した。
 原核生物はほとんどのものが細胞壁を持つが、真核生物のうち動物細胞は細胞壁を持たない。細胞は外部からの衝撃を受けて一度膜が破壊されてしまうと、原核生物でも真核生物でもその機能を失ってしまうことから、真核生物において核やオルガネラなどの器官ができ、構造が強化されたから細胞壁が無くなったのだと考えることはできない。細胞壁のない細胞は、あるものに比べるとずっと柔軟で変形自在な構造になる。つまりそれだけ細胞の多様性が高まるということである。では、なぜ細胞壁を消す必要があったのだろうか。それは何らかの変異が起きたか、あるいは真核生物が誕生する時代に地球上で何かしらの過酷な環境状況があったからであると考えられる。なぜなら、細胞膜だけの方が、細胞壁があるよりも物質の伝達が効率よく行くため、生命活動の効率が上がるからである。

A:途中で論理が往復しているのが読みづらいですね。できたら、細胞壁をもつ利点と不利益な点を整理して論理を進めた方がよいでしょう。あと、せっかくここまで考えたのであれば、あと「生命活動の効率が上がるのになぜ植物や菌類は細胞壁をもつか」という点まで触れたいところです。


Q:原核生物と真核生物の違いの一つに細胞小器官(オルガネラ)の有無がある。真核生物が細胞小器官を有する理由の一つは、細胞小器官内のミトコンドリアやゴルジ体などの機能に最適な条件をつくることが考えられている。さて、細胞共生説について私はなぜ、共生する必要があったのかに疑問をもっている。特に、環境に依存しているのではないかということ。共生することは、その生物の置かれてる環境に変化があったからではないか。環境の変化により自らを進化させたのではないだろうか。今現在となっても、生存している原核生物は存在するし、例えば海底のブラックスモーカー付近に生息するチューブワームには細胞小器官は存在しない。すなわち、チューブワームのように我々にファミリアーな生物が到底生存できない極限環境において生息している生物にとっては、その環境化で十分に生息できるので、わざわざ進化する必要はなかったのだろう。この例を考慮することは、細胞共生説は環境に依存しているという私の疑問を解決するのではないだろうか。

A:「チューブワームに細胞小器官が存在しない」というのは、「チューブワームの共生細菌が細胞小器官化していない」の間違いでは?環境の変化と結び付けて考えるのは面白いと思うのですが、例として、どのような環境の変化が葉緑体を生み出し、どのような変化がミトコンドリアを生み出したのか、という具体的なイメージを持てるといいですね。


Q:生物の定義は「細胞からなる」、「自己増殖機能を持つ」、「代謝をする」であると授業で聴き、それらを満たさないウイルスは非生物であると聴いた。では、ウイルスとは、一体何なのか。ウイルスは死滅するものである。しかし、ウイルスが生物でないということは、ウイルスは「生きていない」ことになるのではないだろうか。それならば死ぬのではなく単に、DNAやRNAを包んだタンパク質からできているという構造が壊されることを、死滅といっているだけなのか。私には、ウイルスは、遺伝子情報をもち、増殖するのに他の生物を必要としているとしても、個体数が増えるので生物だと思えてしまう。様々な生物が多く存在する今の世界で、ウイルスがなくなることはない。それならば、その環境に適応している生物と考えても良いと思うのだ。また、ウイルスが生物の起源かもしれないというのを耳にしたことがある。現在の定義でウイルスが生物でないとされるならば、定義の見直しをしてみてもいいのではないだろうかと思った。

A:定義というのは、ある人もしくは人の集まりによってなされるものですから、全ての人が同意するかどうかとは別問題です。ですから、定義を見直す、というよりは、私はこのように生物を定義する、ということになるのだと思います。その際に、どちらの定義がより多くの人に使われるかは、どちらがより問題を引き起こさないか、ということに依存するのでしょう。ウイルスが生物ではなくなる、というのも味方によっては問題の一つです。一方で、ウイルスが生物だとしたら、葉緑体やミトコンドリアも生物になるかもしれません。葉緑体も増殖をしますし、構造が壊れれば「死に」ます。そのようにして、いろいろなものを考えた場合に、もっとも問題が少ない定義が生き残ることになります。


Q:今回の授業では細胞についてその定義から細胞共生説まで学んだ。生物学において共生と言えば、私は先ずコバンザメがクジラ等に密着しエサや排泄物を食べたり、イソギンチャクがヤドカリに密着して遠くに運ばれるのを助けられたりする「共生き」を考えた。しかしこれらは生物と生物の外的隣接による共生であり、今回学んだ細胞単位での内的な共生とは全く違うように思う。授業中に一つの丸がもう一つの丸に飲み込まれ、飲み込まれた丸は二重の膜を持っているという説明があった。
① 飲み込まれた丸がシアノバクテリアであること
② その必然性から、飲み込んだ丸が後に植物細胞の元となる細胞(真核生物)であること
③ 元来シアノバクテリアは外膜と細胞膜の二重膜を持つ構造であったこと
を踏まえると、シアノバクテリアが「元となる細胞」に飲み込まれると、三重膜を形成するのではないかという疑問を抱えた。実際に藻類には三重以上の膜を持つ物もあるようであるから、これも含めてこれから調べてみたいと思う。また、シアノバクテリアが飲み込まれる以前の「元となる細胞」の状態が細胞膜+細胞質+核+ミトコンドリア…と、動植物細胞がどちらにも共通する構造を示していた場合、動物細胞と植物細胞の大きな違いである細胞膜は最後に形成されたと単純に推測した。即ち動植物の細胞差は極めて小さな規模であり、その意味で授業中の系の似た生物の分類図で、いくつかの動植物が近い関係にあったのにも頷けた。

A:動物と植物で大きく違うのは、細胞膜というよりは、細胞壁が細胞膜の外にあるかどうかです。共生藻の葉緑体膜の枚数についてはまだ分からないことの方が多いような段階です。いくつかの例は、一次共生、二次共生などによって説明されていますが、そもそも説明困難な例もあります。


Q:真核生物とシアノバクテリアの共生について考えたことを書く。葉緑体とシアノバクテリアの形が似ていること、独自の遺伝情報を持つこと、膜が2枚あるなどの事実から、真核生物がシアノバクテリアを取り込んだと考えられている。この説明は多くのことを説明できるが、細胞に対してそれほど小さくないシアノバクテリアを取り込むという、不自然なことをやっているように感じた。なぜこの取り込まれるということが起こったのか。シアノバクテリアは偶然取り込まれそのまま落ち着いてしまったのか、それとも取り込まれるという動きはよくあることなのか、と思った。系統樹を見ると光合成植物と非光合成植物が混ざっていて、さらに光合成植物だけを考えても系統樹を作れるため、葉緑体の起源は1つでそれが分化し真核生物に取り込まれるということが何度も起こっていると考えられている。よって真核生物がシアノバクテリアを取り込むというのは偶然ではなく、よくある動きなのではないかと考える。そう考えると、今真核生物のなかにいる細胞小器官以外にも過去に真核生物に取り込まれたものがあったという可能性も考えられる。取り込まれたもののなかで葉緑体などは細胞の中で本当に共生することができ、他のものは細胞内の環境と合わずうまく共生することができなかったと考えることができる。また葉緑体も取り込まれたあと本当に共生するためには、時間がかかったのではないか、と思う。

A:おそらく、共生は、する、しない、の二者択一ではなく、中間的な段階もいろいろあったと思われます。宿主が藻類を「食べた」あと、しばらくの間は生かしておいてその光合成産物を利用するが、いずれ吸収してしまう、といった例も知られています。