変わる植物学 広がる植物学?モデル植物の誕生

塚谷裕一著、東京大学出版会、2006年、227頁、2,400円

大腸菌やショウジョウバエなど、生物学の分野においては特定の生物種が集中的に研究され、それらの生物はモデル生物と呼ばれている。植物学の分野においてその地位を占めることになったのが本書の主題であるシロイヌナズナである。では、モデル生物の重要性はどこにあるのか。研究というものが個人で行われ、場合によってはその個人の死とともにその成果も失われていた錬金術師の時代から、コミュニティーとして研究を遂行し、個人個人の成果の集合体の上に次の研究が構築される近代科学の時代となって、生物学においてもコミュニティーの共通言語を持ちたいという欲求は確実に増大してきた。そのひとつの現われがモデル生物の設定であろう。博物学というのがいわば情報の羅列に過ぎなかったのに対して、誰もが同じ生物を使っていれば、すべてを同じ土俵上で議論することができる。動植物に共通な遺伝情報であるDNA配列という共通言語とモデル生物という共通の土俵を手に入れたことによって生物学は大きく進歩した。少なくとも執筆の時点において著者は、その進歩に対していくつかの留保をつけながらも極めて楽観的である。しかし、この本の執筆から5年たった現在、どうもその楽観論を共有することは難しくなっているように感じる。遺伝子の配列とその機能を関連付ける研究の中で、形態形成に関与する遺伝子などについて動植物を越えた共通性が認識され、より普遍的な議論が可能となったのは確かである。しかし、一方、遺伝子の機能解析に重要な表現型の解析が重みを増すにつれて、生物種の特異性が再び表面に現れるようになり、結果的にDNA配列という共通言語の神通力は徐々に薄れてきているように思われる。「生物学は再びバベルの塔の状況に向かいつつあるのではないか」、そのような危機感を持って、生物学の将来をもう一度考え直す時期に来ているというのが、本書を読んでの、やや逆説的な感想である。

書き下ろし 2011年7月