植物を考える ハーバード教授とシロイヌナズナの365日間

ニコラス・ハーバード著、八坂書房、2009年、395頁、2,940円

「植物の研究者というのは、やはりいつも植物のことを考えながら研究をしているものですか」と問われた時に、近年、必ずしも自信を持って「はい」と答えられない状況になってきている。生態学などの場合は、まあ問題ないとしても、研究の対象レベルが細かくなるに連れて植物の個体からは遠ざかる。神経衰弱のゲームにおいて個性のないカードを裏返しては当たりかどうかを確かめるように、遺伝子やタンパク質という広げられたカードの中で、どれがどれにつながっているか、という連鎖を追うだけに終始する研究発表を聞かされることも多い。「シロイヌナズナfoo変異体におけるBAR転写因子とBAZ蛋白質の相互作用」といった発表演題を目にすると、この演者は何が楽しくて研究をしているのだろうかと余計な想像をめぐらしてしまう。

さて、本書の著者は、シロイヌナズナを対象に極めて高い水準の分子遺伝学的研究を展開しているものの、やはり、シグナル伝達系路における因子の連鎖を追いかけるだけの研究に疑問を抱き始める。それどころか、ストレスから体調に変調をきざし、人生についても疑問を感じるようになる。そこで、植物の基本に立ち返り、家の近くの野生のシロイヌナズナ個体を一年にわたり観察しながら、研究への思いと、日常生活の観察を日記の形で書き綴ったのが本書である。研究そのものだけではなく、研究のアイデアの思いつく様子や、問題点の検討の仕方、論文を書き、推敲して雑誌に投稿してやりとりする様子なども丁寧に記述される。途中には、植物の生活環と対応させる形で研究のバックグラウンドと植物生理学の基礎的事項が紹介されるので、エッセーとして文系の人が読むのはさすがに難しいだろうが、専門家ではなくとも著者の思いと論理を追いかけることは可能である。若い研究者にはそれだけでも参考になるだろう。特に、実験の細部にとらわれて研究の意義を見失いつつある人がもしいたら、是非お薦めの一冊である。とはいえ、本書によって悩みに対する回答がすぱっと与えられるわけではない。本書の著者は、野生の個体を観察し、1年にわたって考察することで、新しい研究の方向性を見いだすが、それ自体は一般化できない問題であるし、より一般的な人生に関する悩みの方は、どうも研究の方向性が見いだされた途端忘れられた感がある。強いていえば、基本に戻ってじっくり考える時間がたまには必要だ、ということ自体が回答なのだろう。

本書には、訳者による注が随所に載っていて、これが楽しい。登場する個々の植物や昆虫について微に入り細に入り解説するかと思えば、著者の誤りを容赦なく指摘し、また時には著者の宗教的な性向を揶揄するといった調子である。本書を読む限り、この著者はかなり独特の思考回路の持ち主で、スメタナとヤナーチェクの音楽を「昆虫めいた反復音型」と表現するなど、比喩一つとっても生物学が頭から離れない様子である。このような著者の個性と訳者の個性がぶつかりあって、記述をより立体的にしている点も本書の魅力の一つであろう。

蛋白質核酸酵素8月号 vol. 54, No. 10, p. 1326 (2009)